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学校長Essay ~創立95周年式辞~

本校は、大正15年(1926年)4月1日、山形裁縫女学校として、予備校校舎の一部を間借りして誕生しました。開校当時、生徒数は30名あまりで、小学校を卒業した後に女子が学べる山形市内の学校としては、県立高等女学校(現山形西高)、女子師範学校(現山形大学教育学部)、山形精華裁縫女学校(現山形学院高)、竹田裁縫女学校(現山本学園高)があり、私立では3校目の裁縫学校として産声を上げたことになります。今から95年前のことです。

大正15年というのは、12月25日に大正天皇が47歳という若さで崩御なされたため、大正から昭和へと改元された年になります。大正時代、選挙権を持つのは一部の人たちだけでしたが、本校開校の前年、大正14年にようやく普通選挙法が成立し、満25歳以上の男子だけに選挙権が与えられました。女性の選挙権が認められたのはその20年後のことです。そして、世界の趨勢に合わせ、5年前から日本でも18歳以上となりました。

今月31日には衆議院選挙が行われますが、少子化により若い世代は上の世代に比べ圧倒的に数が少なく、その分だけ若い世代が大事にされないという課題があります。いわゆる「一票の世代間格差」です。若者が投票にいかなければ、ますますその格差は広がります。選挙権を得た3年生の皆さんは、ぜひ初めての一票を投じましょう。

話を戻しますが、大正時代は、仕事をする職業婦人が登場し、洋装に断髪という特徴的な装いが生まれるなど、西洋文化の影響を受けはじめた時代です。しかし、山形に限れば、当時、成人の女性で洋服を着ている人はほとんどおらず、本校の制服も、上着は和服、下は袴、髪の毛は後ろで一つに結んだスタイルでした。

大正末期から昭和初期にかけては世界的な大不況で、開校の喜びもつかの間、不況の波は山形にも押し寄せます。学校の経営状況が悪化し、当時の校長であった常世正末氏が、昭和7年度をもって山形裁縫女学校の閉校を決定します。開校からわずか7年のことです。しかしながら、主任教員であった富澤カネ氏は、在学する生徒への責任と、生徒たちの学校存続を叫ぶ悲痛な声、教育に対する情熱などから新しい学校の設置を決意します。

そして、昭和8年10月、県の認可が下り山形女子職業学校と校名を変更、10月20日に開校式を行いました。設立者の富澤カネ氏が初代校長に就きますが、時に28歳という若さでのことです。それ以来、山形女子職業学校の開校式が執り行われた10月20日を、本校の創立記念日とするようになりました。カネ氏は、経済不況が女性に及ぼす影響を目の当たりしたことで、女性の職業教育の重要性を痛感し、いわゆる「手に職を」という考えのもと、職業教育に力を注ぎました。

山形女子職業学校には和裁洋裁に加え、看護婦科、タイピスト科が併設されました。当時、県内には看護師を養成する学校は一つもなく、そのさきがけとして本校がその役を担い、科を廃止するまでの8年間で約350名の看護師が誕生、県内外にとどまらず、満州など外地にも赴き、活躍したことは記憶にとどめておきたいことです。

さて、カネ氏は、無事開校式を終え、自宅に帰ったその晩、のちに第2代校長となる夫の昌義氏とともに「わが家の憲法」を作ったと、『思い出のままに』と題する回顧録の中に記しています。その内容は、
・大勢の人の厚意を決して忘れないこと。
・お金を貸してくださった方たちには、なるべく早くお返しすること。
・そのためには、生活は主人の給料だけにすること。
・借金を返すまで学校からの給料はもらわないこと。
そして、学校と家庭との一線を画すため、
・夕食の2時間は仕事の話をせず、子供たちの話を聞くこと。
・子供たちのために、日曜日は仕事を生活の中に持ち込まないこと。
・夏休みは子供たちを中心にして、必ず旅行を計画すること。
といったことでした。なお、カネ氏の収入は、本校が昭和16年に国の認可を受けるまでは皆無だったとのことで、「誰しも事業を無から始めた人はその仕事に投資することが先で、そのためにはあらゆるものを金に換える場合すらある。味噌をなめて、明日のために頑張る。だが、心まで貧しくなることはなかった。」と回顧しています。

今日は、本校の開校時にスポットを当てながら、その歴史を振り返りました。
家庭に電話もなかった大正時代の100年先を生きる私たちですが、インターネットやスマートフォンのおかげで、いつどこででも世界中の人とつながることができ、自宅にいたまま働くことが可能になるなど、生活は劇的に変化しました。それでは、これから100年先は一体どんな社会になっているでしょう。100年前の人たちが今の社会を想像できなかったのと同じように今を生きる私たちがこれから100年先を想像するのは容易ではありません。しかしながら、一つだけ確信できることがあります。それは本校のこれまでの歩みのように、変化への対応をやめないことです。

最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。
進化論を唱えたダーウィンの考えを心に刻み、変化と挑戦を恐れず、そしてコロナ禍の中でも外の世界を見ることを怠らず、地球の未来と未来の世代のために、日々精進されることを期待します。